吉田松陰を語らずして明治維新を語るなかれ

知識が広がる本

吉田松陰の絶筆「留魂録」は、処刑前日に松下村塾で教えた愛弟子に宛てた遺書です。それは1日半かけて書き終えたもので、身内やごく親しい人にしかわからないことが多く書かれています。そのため、その前の予備知識を理解し、なぜ、吉田松陰が遺書を書かなければならなくなったかという経緯とか時代背景が重要ですが、この本ではその部分も詳しく解説しています。

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<はじめにより>
道徳の教科書にも掲載されていた吉田松陰
「木を見て山を見ず」という至言がある。歴史上の人物に関して枝葉末節的なことは詳しく知っていても、その人のことを五百字以内で述べよと言われると、うまくまとめることはむずかしい。そんな吉田松陰の人となりについて、1921年発行の教科書『尋常小学修身書』に「自信」という項目のところに伝記が五百字で記載されています。子供たちは道徳の授業で学んでいたのです。

吉田松陰の幼少期の生い立ち
1830年8月に生まれ、幼名は虎之助。のち、大次郎、松次郎、寅次郎と改めた。松蔭は号である。妹の千代によると、「5、6歳の頃から手習いや書物を読むのが大好きで、とても従順。いわれたことをそのとおりやれるかどうかをいつも気にかけていた少年であった。」と記されています。6歳で家督を継いで山鹿流兵学師範となり、十一歳のときに山鹿素行の兵法書「武教全書」を長州藩の藩主に講義し、“神童”と騒がれることになったエピソードもあるのです。

時代を見る目が確かで、考え方も柔軟
吉田松陰は長州藩の下級武士で、幕末を代表する尊王攘夷派の論客・思想家・教育者であり、山鹿素行を祖とする山鹿流の兵学者であった。「尊皇攘夷論者」でしたが、諸外国の実力を知り、「日米和親条約」が成立すると現実に即応した「尊皇開国論者」になりました。一方、井伊直弼は天皇の許しを得ることなく、独断で「日米修好通商条約」を結び、それをした百名を超える反対派に対して「安政の大獄」を断行。影響力が最も大きいと判断した7名を斬首(そのうち一名は獄門)に処しましたが、その最後の処刑者が松陰(30歳)でした。

<レビュー>
吉田松陰は単なる筆舌の人ではなく実行の人でした。獄中でも「孫子」や「孟子」を教え、同獄者からも一目も二目も置かれていました。処刑される二日前から「留魂録」に執筆した冒頭には、「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かめし大和魂」の辞世の句が記されています。松下村塾で指導を受けた高杉晋作らの門弟たちは、処刑場の露と消えた“松陰の不屈の大和魂”に触発されて倒幕へと舵を切り、明治維新という偉業を達成しました。
吉田松陰は、数多くの計略をめぐらせ、ことごとく失敗に終わった「失敗の歴史」「挫折の人生」でした。しかし、明治維新という革命を推進する“急先鋒”となった不可欠の逸材でした。徳富蘇峰は「吉田松陰を語らずして明治維新を語るなかれ」という意味を述べています。「留魂録」は激烈な遺志があり、必読の価値がある書です。

<目次>
第一部 「真筆・留魂録」現代語訳
第二部 吉田松陰の人と思想

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