吉田松陰ほど型破りな日本人はいただろうか。誰よりも熱く、誰よりも冷静だった天才思想家は、牢獄に入れられようとも、死を目の前にしようとも、自分が信じる生き方を最後まで貫き通しました。30歳という若さで生涯を閉じましたが、その志は生き続けました。松下村塾の弟子たちは、史上最大の改革である明治維新をおこし、近代国家を作り上げたのです。
覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary Books) [ 池田 貴将 ]
<プロローグの内容>
虎視眈々と西洋に勝つ作戦を練る
鎖国の時代、アジアは次から次へと欧米諸国の植民地になっていた。そんな時にペリーが黒船を連れてやってきて、いきなり大砲三発を威嚇発射すると、江戸はまさに天地がひっくり返るような騒ぎになった。「刀じゃ大砲に勝てるはずがない。」武士から農民まで誰もがそう確信し、眠れない夜がつづく中、西洋を追い抜いてやろうと意気込んでいた人物が、若干25歳の吉田松陰でした。兵法の専門家であった彼は、「どうやって西洋を倒そうか」と虎視眈々と作戦を立てていたが、実際に黒船を見ると「勝てない」と悟り、頭を切り替えた。
勝てないならばどうする
発想の逆転である。むしろ外国のやり方を学んだ方がいい。鎖国の時代は海外渡航などをすれば、死刑である。だが松蔭はそんなことは気にしない。翌年、再び黒船がやってくると、「日本にとって今なにが一番大事なのか」を明らかにしすぐに行動に出るでた。彼はすばらしい戦略家だったが、こういうときはろくに計画も立てなかった。「動けば道は開ける!」とばかりに、小舟を盗むと、荒波の中をこぎ出しそのまま黒船の甲板に乗り込んだ。
行動をもって信念を貫く
突然の東洋人の訪問にアメリカ艦隊は驚きました。無防備な侍が、法を犯し、命がけで「学ばせてくれ」と挑んでくる。その覚悟と好奇心の異常ぶりを恐れたのと同時に、日本の底力を思い知りました。この小さな一歩が、後の「明治維新」という大きな波を生むことになります。「しきたり」を破り、行動をもって自分の信念を貫くことをよしとしたのです。
伝説となった「松下村塾」
密航で捕まった後の吉田松陰は、江戸から故郷の長州藩(山口県)萩へと送られた。仮釈放されると松下村で塾をはじめる。下級武士の子どもが集まる松下村塾には教科書はなく、まともな校舎もなかった。そこで教えた期間は二年半ですが、かの高杉晋作や伊藤博文をはじめとして、品川弥次郎、山縣有朋、山田顕義を送り出した。結果的には、総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創設者2名というとんでもない数のエリートが「松下村塾出身」となりました。こんな塾は世界でも類を見ません。
<レビュー>
吉田松陰は「いかに生きるかという志さえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれる」と信じていた。一人ひとりを弟子ではなく友人として扱い、身分に関係なく入塾を希望する少年には「教える、とういうようなことはできませんが、ともに勉強しましょう」と話したという。教育は知識だけを伝えても意味がない。教える者の生き方が、学ぶ者を感化して、はじめてその成果が得られる。そんな吉田松陰の力強い言葉が著書には176掲載されています。『読書の心得』では、「早く効果を上げたい気持ちはわかります。ですが、本を読むときは、頭の中から「たぶんこういうことだろう」という憶測を捨て去った方がいいと思います。頭の中を空っぽにして、本の世界に飛び込む感じです。頭じゃない。魂のこもった著者の心を、体全体でうけとめるんです。」
<目次>
心/士/志/知/友/死