勉強すれば、なんでもわかると思っていた。たとえそのときにわからなくても、時間さえかければ、本を読めばわかるはずだと。若い頃は本のように世界を「読もう」としたのである。世界が本であるなら、確かに読める。「字は読める」が中身を本当に理解したかどうかは、もちろんわからない。たとえば、人のこころなど読みきれない。養老孟司さんは80代の半ばを超えて、人生を振り返ってみると、わかろうわかろうとしながら、結局はわからなかったと語っています。
ものがわかるということはどういうこと?
養老孟司さんが大学生のころ、家庭教師で学生を教えていた時、数学がわからない子が多かった。そういう子どもを見ていると、「何が何だか、わからない」んだな、ということが、「わかる」んです。いま生きている身近な世界で自分が数学の問題を考えているが、その意味がわからない。していることの意味、全体の中での位置づけが不明なのです。数学の勉強は社会で生きていくためのいい訓練になりますが、なぜ数学をやらなくてはいけないのか?受験や将来だとかいろいろ言うが、結局はよくわからない。
数学の約束事がわかる
2a-a=2と解答すると、間違いにされます。式を見直してみると、2aからaを引けば、残りは2でしょう。ところが数学には約束事があります。2aとはaが2つあることになっています。そう決まっている以上、それを知らないと間違えてしまうので、「わかりなさい」となる。「わかる」と、なぜ勉強しなくちゃいけないのか、いずれ「わかる」。
「わかる」と「知っている」
あたり前のことを訊かれると「そんなことはわかっている」と返事をします。これは、「知っている」と言ってもよいです。では「わかっている」と「知っている」の違いは何でしょうか。2a-a=2だと、知っているだけでは4a-a=4となるかもしれません。4aはaが四つあることだと、「わかって」いれば、そこからaを一つ引くと、答えは3aになります。つまりわかっていると、他の問題も正解がだせます。「知っている」だけでは「わかっている」ことにはなりません。
自分では「わかっている」と思っていたことが、じっさいにやってみると「知っている」だけで、わかっていないことが多々あるな〜と実感します。本を読むことも知識は増えるけれども、理解していないなんてことがあります。たとえば、コーヒーの焙煎の仕方は本を読んで知っているのだけれども、実際にやってみると一部焦げたりして均等にうまく焙煎できなかった。何十回と繰り返して学習し、やっとだいたいわかってきた感じです。しかし、本当にわかっているかと言えば、わかっていないことだらけを理解しました。
<目次>
第一章 ものがわかるということ
第二章 「自分がわかる」のウソ
第一章 世間や他人とどうつき合うか
第二章 常識やデータを疑ってみる
第三章 自然の中で育つ、自然と共鳴する