日本の神話が世界と繋がっていた。神名、神社、祭祀、宝物、文献、伝承、遺物、遺跡に関する記述も、すべて事実にもとづいて書かれた小説です。点と点が繋がり歴史の常識が変わります。
アマテラスの暗号(上) (宝島社文庫) [ 伊勢谷 武 ]
アマテラスの暗号(下) (宝島社文庫) [ 伊勢谷 武 ]
そもそも日本の神道とは
神道は、開祖もいなければ教義も経典も戒律もありません。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も仏教も文字が発明された後に成立した宗教ですが、神道は文字ができる前に自然発生的に生じた宗教です。神道は他の宗教のように論理の上に成り立っているのではなく、心の上に成り立っていると言えます。だから神道には明示的な真理も、善悪も、正義も、悪も、罪も、罰も業もありません。高天原という神々がいるところはありますが、天国もありませんし地獄もありません。ただし、感性的な清いものと穢れたものの区別や美しいものとそうでないものの区別はあります。
自然も人間も不可分な全体の一部分
外国の方には、神道は宗教として不可欠なものを欠いているので宗教と呼べないのではないかという方もいます。日本の神道はまったく教えがないというわけではありませんが、強いていえば自然の理法に従って生きるということ。もともと日本には自然と個人の区別はなく、「個人」という文字は明治時代に西洋から持ち込まれた言葉なんです。また、“産霊(むすひ)”という概念があり、一粒の米から約四百粒の米が育つように、“育てる”ということが重要視されます。道徳的な善悪以前に、生命力のあるものを生み出すことはすべてにおいてよいものとされるのです。
すべてを受け入れる抱擁力がある神道
外国の宗教はコンピューターでたとえていうとプログラムみたいですが、神道はむしろOSのような感じです。こうしなさいという命令がありません。そもそも日本の神さまはなにも教えないし、縛りつけるものが何もないのです。神道は神教でも神法でもありません。茶道や武道のように各自が自分の言葉で自由に表現でき、受け入れ側のありようでいかようにでも変わりうる“道”という感じです。明確な教義がないからこそ、すべての宗教を矛盾なく受け入れることができる抱擁力があるのです。
<レビュー>
宮司の父が殺されてしまったことで、神道と世界の宗教の闇に巻き込まれてしまうという物語ですが、この小説は下手な宗教の本を読むよりわかりやすく世界の宗教の本質を知ることができます。この本を読むことで、そもそも日本の神道と世界の宗教を同等に考えてはいけないことがわかりました。世界の宗教には経典などがあり「教え」があるので理解しやすいのですが、神道は明示的な教えがありません。そのため道徳という授業がありますが、徳の道と書きます。悪い事をしたら、「お天道様がみているよ」とよく言われたものですが、そこにも「天の道」と書きます。日本の神道は「道」に凝縮していると実感しました。圧倒的な事実に基づく資料にも脱帽です。
アマテラスの暗号(上) (宝島社文庫) [ 伊勢谷 武 ]
アマテラスの暗号(下) (宝島社文庫) [ 伊勢谷 武 ]